いのちの授業『母親ってなんですか・・・』
今週は『いのちの授業』ウィーク!
ほぼ毎日、どこかの学校に出かけています。
昨日は小学校4年生。
最近定番になりつつある
二分の一成人式を迎えた10歳の子どもたち
つまり20歳の半分の時間を生きてきた
彼らに「いのちの授業」をしました。
4年生といえば
ママにとっては物理的な子育ては
楽になってくるころです。
第1子のママたちは
二分の一成人式で子どもたちが贈ってくれた
感謝の言葉に手放しで感動しますが、
上に中高生の子を持つママたちは
それが『つかのまの喜び』であることを
よ〜く知っています・・・(ー ー;)
そして今日は
大阪府三島郡島本町立第一中学校
3年生「いのちの授業」。
受験を控えた中学3年生。
ひとりで大きくなったような顔をしている子、
まだまだ幼い子、個人差はいろいろですが
授業事前アンケートで
ハッと目を引く質問がありました。
「母親ってなんですか・・・」
どこの学校に行っても、
さまざまな環境、さまざまな家庭の子がいます。
いろんな葛藤、苦悩の中で
一生懸命に生きています。
「母親ってなんですか・・・」
なんでしょうか、母親って。
改めて考えさせられました。
わたし自身は今『母親』だけど
最初から『母親』だったわけではありません。
11人産みました。
だけど離婚を経験し、現在育てているのは
7人の子どもたちです。
産んでも、
育てることができなければ母親ではない?
いいえ。
紛れもなくわたしはおなかを痛めて産みました。
今もずっと、離れて暮らしている
子どもたちの幸せを静かに
祈り続けています・・・。
無条件に彼らを想い、
彼らの幸せを願い、
決して忘れることはありません。
何もしてあげることはできない。
でも間違いなく、愛している。
母親って、
そういうものなんだと思います。
ばぶばぶに来ているママたちを見ていて
初めての子育てなのに、
旦那、義両親、実親、親戚、
そして社会から、
聖母マリアのような母親でいる期待や理想を抱かれて、
苦しんでる人がたくさんいます。
子育てはたいへんです。
ママは一人で“自分以外の命”を守り、育み、
いろんな責任を背負っています。
「ママ」という職業はすごく尊いはずなのに
すべてやって当たり前!
できて当たり前!
だと思われてしまいます。
そのジレンマやストレスから
解放されたらどんなに楽でしょう。
それを理解してくれる人がそばにいたら
どんなに心が救われるでしょう。
日本の社会では
赤ちゃんを産んだその瞬間から
「母親なんだから」
「あなた母親でしょ?」
「母親のくせに」
急に母親の役割を押し付けられますね。
やがて
「母親とは・・・」
「母親たるもの・・・」
歪んだ常識の枠に無理矢理はめ込まれて、
そしてそれが当たり前だと思い込まされます。
でも、その枠に入りきれず、
理想の母親像になりきれないママは、
自分で自分を「なんてダメな母親なんだ」と
責めてしまうようになります。
ダメな母親だと周囲に思われたくないから
「助けて」と言えなくなります。
全部一人で抱え込んでしまうようになります。
わたしがそうでした。
いえ、今現在まさしく
そんな状況なのかもしれません。
思春期に入ると、親のイライラは頂点に達します。
精神的な子育てでの
真の修行がここから始まります。
子どもの横暴な態度になかなか寛容になれず
「もうなにもかも投げ出してしまいたい!」
目の前の問題から逃げてしまおうとする自分は
母親失格だ!と落ち込んでしまうことがありますが、
反抗期は一時的なもので、
その子の本質ではないんです。
わかってる。
わかってるんだけど・・・
わたしたちママだってひとりの人間。
母親である前に、
ひとりの人間です。
失敗することだってあります。
常識の枠から外れることだってあります。
感情に振り回されることだってあります。
母親だけど
ママなんだけど・・・
もう、その立場をお休みしたいと
思うときだってあります。
思春期を育てている母親として、
子どもが小さかった時代とは別種類の
もっと深くて重く、深刻な壁にぶち当たり、
悩んでおられる40代のママが
ばぶばぶにはたくさんいらっしゃいます。
現状から逃げてしまいたい。
わたしは子育てに失敗してしまったんだろうか・・・。
そんなふうに思ってしまう自分がいます。
小さな子どもを育てているあなたも、
いずれそんな思いに涙する日も来るかもしれません。
でもね、思うんですよ。
上手に、器用に、
理想通りの子育てができなかったとしても、
子どもが予測外の行動をとるようになったとしても、
それを悪いことだと決め付けないでください。
自分で自分を裁かないでください。
ママは何も悪くないんです。
一生懸命、
ただただ、子どもの幸せを願って
頑張ってるだけ。
「生まれてきた子どもには何の罪もない」
という言葉があります。
聞いたことあるでしょうか。
この言葉が真実ならば
「子どもの成長」には親に全責任があることは
論理的には必然となってしまいます。
また「子どもは親を選べない」とも言いますね。
子どもに親の選択権がない以上、
親が子どもを大切に育てる義務があるということもまた
法律的問題というより倫理的な必然でしょう。
とくに、へその緒が結びついていた
母親と子どもには
父親以上にこれがあてはまるかもしれません。
でもわたしは今、
実感しています。
子育てって、きれいごとじゃありません。
人の歓びと哀しみは
親子になったことから始まることもある・・・と。
残念ながら母と子の関係は
「美しい物語」に終始するわけではありません。
母親には母親の生き方と夢があり、
子どもには子どもの欲望と夢があります。
これらがうまくクロスすると最高だけど、
クロスしない場合が多いのも
当然のことです。
だって、子どももママも
違う人格を持ったひとりの人間なんだもの。
それは母親が「専業主婦」であろうと
「キャリアウーマン」であろうと
「シングルマザー」であろうと、
「夫婦別姓主義者」であろうと、
「フェミニスト」であろうと。
母と子どもの価値観や生きざまが
ぴったりパズルように噛み合うなんて
そうそうあることではありません。
もし母親の子どもに対する想いが
「愛情一筋」だとしても、
思春期になると
子どもの母親に対する想いは「愛憎二筋」でしょう。
愛と憎悪は良くも悪くも裏表です。
それでも!
子の幸せを願わずにはいられない。
自分が無力であったとしても・・・
それが母親なんですよね。
母親が持つ母性には
2つの側面があって
「抑圧としての母性」
「癒しとしての母性」
両方とも母性に違いないのに
見事に両極!!
これでは中学生に
「いったい、どないやね〜ん!!!」
「母親って何やねん!!」
と言われても
しょうがないかもしれませんね。(^^;;
無条件の幸せを祈る反面、
親の責任として教え諭さないといけないことも
たくさんあって、
大人の考えや価値観をしっかりと伝える必要もあります。
でも、思春期の子どもが素直に納得し
従うことなど稀です。
だから、子どもの反応を伺いながら
同じ土俵には立たず、
聞き分けるまで深追いすることはせず。
もうほんと、親の胆力が試されるとき。
親として・・・というより
人間としての力量が問われる
といっても過言ではないです。
思春期の子育てを乗り越えたとき、
本当の親になるのだと
今、わたしは思っています。
人はみな
何かを抱えて必死に生きています。
子どもも、大人も、誰だってみんな
きっとダイヤモンドの原石なんです。
磨かれて磨かれて輝く存在。
だからどうか
ママも自分の価値を知ってほしい。
子どもたちも、たくさんたくさん、
光輝いてほしい!
「母親ってなんですか?」
母親とは。
子どものことを無条件に想い続け
無我夢中で生きている女性
だと思います。