好きなのにはワケがある:宮崎アニメと思春期のこころ
もうすぐ大学生になる娘。
進学する大学から、早くも合格者課題が出されています。
レポート作成のための課題図書が届き、
3000文字も書かれへん〜〜!と悪戦苦闘している娘を尻目に
どれどれ・・・パラパラっと流し読みをしてみたのですが、
おもしろい!!!
娘ではなくわたしが、ハマってしまい一気読みしました。
ジプリ作品は大好きで、どの作品も何度も観ました。
わたしが最初にハマったのは、中学生の時。
「風の谷のナウシカ」でした。
授業中、ナウシカの絵ばかり描いて空想の世界に浸っていたのを覚えています。
「天空の城ラピュタ」は映画館に観に行きました。
飛行石が欲しくてたまりませんでした〜。
子ども時代は、映像がきれいで、空飛ぶシーンが多く
夢がいっぱいのアニメだというだけで単純に好きだったのですが、
自分が成長するごとに、ジプリ作品は、ただ
「ファンタスティックな物語」なのではなくて、
ストーリーの奥行き、伝えようとする深いメッセージがあるのだろうということを
なんとなく感じるようになりました。
でも、それはとても抽象的に表現されていて、
何度観ても、大人になっても難しすぎてよくわかりませんでした。
臨床心理士である著者が、
ジプリの登場人物を思春期の心の葛藤や問題と絡めて読み解いていきます。
多感な年頃の子どもと付き合って行くことは、
幼児を育てるのなど比じゃないぐらい大変です。
気苦労の連続に、ママの方が崩壊してしまいそうになることも。
共倒れすることなく、本当にたいへんな思春期とうまく付き合い
乗り越えていくためには、
まず、彼らの中の揺れる心がどこからきているのか
理解することから始まります。
高校生向けの本のようですが、
大人が読んでもかなり勉強になると思います。
「千と千尋の神隠し」のオクサレサマは、数年前の娘です。
小さい時は幼ないゆえに、どんなことが起きても深く考えることもなく、
ただありのままに毎日楽しく過ごしていた娘でした。
世間体よりも、子どもらしく自分の好きな世界観の中で
正直に生きていたと思います。
先生の言うこと、親のいうことにも素直ないい子でした。
でもだんだん、
大人の世界のドロドロした廃棄物を自分の中に抱え込むようになりました。
中学時代の娘は振り返ってみるとオクサレサマそのものでした。
オクサレサマにはトゲが刺さっていて、
それを千尋たちみんなで抜こうとします。
抜けた途端、ありとあらゆる産業廃棄物がオクサレサマの中から溢れ出てきて、
オクサレサマが実は高貴な川の神だったことがわかります。
本には、やわらかな感受性をもっている子ほど、
大人の世界の廃棄物に汚染されて
自分で浄化できないままにオクサレサマに変じてしまう危険性が高い
と書いてありました。
ということは、
強烈な反抗期だった娘は
「やわらかい感受性を持った子ども」だったのかもしれません。
そんなふうに考えてみると、
思春期にオクサレサマみたいにドロドロになった反抗的な子どもほど、
トゲさえ抜けたら純粋で浄化された心が現れる可能性があるということです。
前向きな考え方に、ちょっと嬉しくなりました。
娘のトゲはまだ抜けきっていないかもしれないけど、
千尋や、湯婆婆や、リンのように、
彼女の周りには、全部抜けきるまで力を合わせてくれる大切な人たちがいます。
物語のオクサレサマみたいな高貴な神にはなれなくても、
いつかすべてのトゲが抜けた時に、
穏やかで深い懐で人を包み込めるような大人に
成長してくれますように・・・
わたしは母親として
焦らず、慌てず、ただ愛を持って
着地点を探して未だ旅をしている娘を見守っているところです。
千尋は、ある日突然、異次元の不思議な世界に迷い込みました。
娘は実社会に生きていて、大人に近づくごとに見え始めたこの世界の
不条理さや冷淡さが、まるで千尋の迷い込んだ摩訶不思議な世界
そのもののように思えたのかもしれません。
「なんで?」
「それおかしくない?」
毎日が納得いかないことや疑問、腹立たしさの連続。
千尋と同じように、実社会という湯婆婆に、
名前を奪われてしまったのだと思います。
湯婆婆は、本当の名を奪うことでその人を支配します。
まだ社会に出たこともなく、思考回路が未熟で甘い娘だから、
大人の不条理さや、社会の歪みを受け入れられず、がんじがらめになり、
名前を忘れてしまいそうになったのかな・・・。
千尋は、「嫌だ」「帰りたい」といえば、
すぐに動物に変えられてしまう非合理な世界で、
素直に自分の運命を受け入れます。
働かなければ動物にされてしまう世界で、ただ一生懸命に働きました。
なのに、本当の名前を忘れていませんでした。
カオナシにどれだけ砂金を差し出されても
モノに目がくらむようなこともありませんでした。
大人の汚れた世界に引きづられ、浸かってしまうことなく、
最後までピュアな心を失わず、
それでいて、理不尽な世界を受け入れたのです。
子どもの持つ正義感のある美しい心を失わず、
大人の社会に上手に適応して行く能力・・・
それこそが、本当の名前を忘れない、
ということなのだと思いました。
カオナシは自分の顔を持たない存在です。
周囲の人もカオナシの存在にほとんど気づかないし、
カオナシ自身も、自分が何をしたいのか、
何を主張したいのかわからない、本当に寂しくて空虚な存在です。
そんなカオナシに千尋は語りかけました。
それは誰もがやれなかったことでした。
だからカオナシは、自分に声をかけてくれた千尋に執着しました。
社会的弱者である障害者や子ども、貧困の問題、
実社会には、カオナシのような人がたくさんいます。
千尋はそんなカオナシを、人格のある者としてちゃんと対応しました。
その姿勢はわたしたち大人も、考えさせられる姿です。
千尋みたいに、
自分の運命をそのまま自然に受け取り、
ただ一生懸命思ったままに
行動することができるようになるのは
思春期だけじゃなく、大人になったわたしたちにとっても
これからの人生の課題なのかもしれないですね。
実世界の不条理を受け止め、
カオナシという弱者にさえも優しさを持って接する大きな器ができれば
打算など全く関係なく周囲は自然に千尋(自分)に
心を寄せてくれるようになるはずです。
実際、物語の終盤では、
リンも、釜じいも、ススワタも、千尋を助けました。
計算高い大人の社会で、千尋のように自然体で生きて行く力。
大切なのは、どんな環境でも強く生き延びて、
自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれないと思います。
実世界に苛立ちを感じ、
まるでオクサレサマのように子どもじみた反抗をしたり、
エネルギーを内に向けてしまうのではなく、
千尋のように素直な心で大人の世界に慣れ、
エネルギーはいつも外に向けて、
自分の中の自然(名前)を失わないことこそが
大切なのだということが、本には書いてありました。
娘は、これからも苦しいことがたくさんあると思います。
でも、自分の本当の名前を失わないで欲しい。
疲れたら休んで、また起き上がる力をつけて生きて欲しい。
人生は完走するまで、終わりません。
だから、走りたいときは走って、
めんどくさいときは、うだうだ歩いて、
時々昼寝したっていいんです。
ヤバイ!って焦ることもあれば、
アクシデントでブレーキがかかることもあります。
それでも、やっぱり人生は続きます。
ならば、そのままの自分で行くしかないんです。
そのままの自分で、しんどくならずに行くためには、
自分を偽らないこと、ごまかさないことが大事です。
かっこつけてもしんどいときはしんどいです。
嫌なものは嫌ですね。
ふさぎこんでうずくまりたくなることもあります。
なのに、無理をして大丈夫のふりとか、
嘘で塗り固めようとするから、もっともっと苦しくなって
結局はそれがアダになって信頼を失ってしまうのです。
思春期の子育ては、子どもも親も葛藤します。
それが正常な姿なのですが、正直、ほんと辛い。
本を読んで、わたしは今の自分の感情に
正直になってあげようと思いました。
すぐにはうまくできないと思うし、時間がかかると思います。
まずは自分に嘘をつかず、心地よくその気持ちを尊重して、
千尋のように、湯婆婆やリン、釜じい、カオナシ、さまざまなタイプの
さまざまな価値観の人たちと上手に折り合いをつけながら
生きて行く方法を身につけていくことができたら
娘に自分の価値観を押し付けたり、
過干渉になったりしない、素敵な母親になれるのかなと
思ったりもしました。
自分にも他人にも正直であること。
自分も他人も大切にすること。
勇気を出して心の扉を開けたら、
千尋みたいに自然体で生きることができるかな?
ジプリのアニメが、どれもこんなに深いテーマをちゃんと考えて
作られているのだとしたら、すごいの一言!!
今、わたしは、
思春期の子どもたちの心と自分の感情や想いに向き合い、
揺れ動いています。
娘とともに
一歩一歩、成長して行きたいと思います。
まずは3000文字レポート。
がんばれ、娘ー!
(ちなみに、このブログ3600文字。お先に失礼、娘ー!)